Rock-Senti ロクセンチ

「Rays of sunrise」セルフライナーノーツ

「Rays of sunrise」によせて

「Rays of sunrise」はロクセンチの通算5枚目となるオリジナルフルアルバムです。

前作の「Rag & Safety blanket」から、実に8年ぶりのリリースとなります。

この間ソロ名義のe.p.やロクセンチのベストセレクションアルバムに加えてラブハンドルズとの合同ユニット“ロクセンドルズ”のアルバムなどなどリリース自体はあれこれとあったものの、ロクセンチの新作アルバムはなかなか発表できない状態が続いたので、どこかずっと心にトゲが刺さったままのような気持ちでした。

今となってはおぼろげな記憶となってしまいますが、おそらく5、6年前くらいには今アルバムの制作がすでに走り出していたと思います。まずはアルバムの先行曲として「たべさせタイ」を配信し、そのまま順調に進むかと思われたレコーディングでしたが、制作環境の変化や体調不良、コロナ禍の影響などその時々に起こったさまざまな要因によってたびたび制作にブレーキがかかってしまい、しばし停車したのち、いやいや!むしろこれをいい機会にさらにブラッシュアップした作品に!と奮起してまたアクセルを踏み込む、そしていくらか進んだかと思えばまた何かかしら別の事が起こってしまいやむなくブレーキ、至ってしばしののち、いやいやいやぁ!むしろむしろぅ!とまたアクセルを踏みなおす、と、進んでは止まりを繰り返すうち気がづけば刻々と過ぎていった長い長い制作期間でした。

時に孤独となる先の見えない制作の何度目かのブレーキの後、ひょっとするともう今後ロクセンチはNew Albumを出せないのではないか?という漠然とした不安すら抱えるようになりました。そんな中、何度も止まりながらもその都度またなんとかアクセルを踏みこんでいけたのは、目的地で到着を待ってくれているであろう人たちがいたからに他なりません。ロクセンチを気にしてくれたり応援してくれている人、アルバムを待っていてくれた人、ロクセンチに関わってくれた人、すべての人たちのおかげです。

簡単に使っていい言葉ではないと思いますが、困難な状況を越えて今回「Rays  of  sunrise」をリリースできたのはそんな方々の想いがロクセンチに呼び寄せてくれたひとつの“奇跡”だと思っています。言ってしまえばこれまでの活動もそうだったのだけれど、いろいろあった今回は特にそう思っています。

収録したほとんどの楽曲のアレンジメントは、リハーサルでのヘッドアレンジを参考に山田さんが構築してきたものに対して、増やしたり減らしたりしながら徐々に磨きをかけていくいつもの手法で進めました。ライブでもずっとお世話になっているDrums臼井かつみさん、Bass中村カツヲさんには本レコーディングでも大変お世話になりました。またコーラスはmog mocoの mocoさんに本作もあれやこれやと参加していただきました。感謝です。

制作が長きに渡った今回は、一度ほぼOKとしたものを1年経ってからリテイク、何ならもう一度リズムからアレンジを組み立て直してほしいなんて要望をした楽曲も少なからずありました。とても大変な作業だったと思いますが、その甲斐あってどの曲もあらためて瑞々しく、最新のロクセンチとしてお届けすることが叶ったと感じています。

これと同様に、楽曲のMixについても何度も組んでは壊しを繰り返し続けました。突き詰めてみたからといっていい結果が出るとは決して限らないし、かといって衝動を甘やかし過ぎるとこれまたよい結果は生まれなかったりすることはこれまでの経験からなんとなくわかっていたのですが、セルフプロデュースで陥りがちなこのあたりの塩梅、緩急の見極めについて、制作を通じて今回あらためていろいろと学ぶことがありました。

以前にも増して目まぐるしく、絶えず動き続ける世の中の変化に身を置いて重ねた年月の中で、自分たちの本アルバムに対する捉え方自体も制作開始当初のものから少しづつ、時には大きく変化していきました。しかしながら、そうして巡り巡った末に生まれたアルバムは、立ち戻って非常に“ロクセンチのアルバムらしいアルバム”となったような気がしています。

これまでのアルバムと同様に、収録楽曲の多くはこの8年のロクセンチのライブやイベントをきっかけに生まれた楽曲たちです。日々の喜怒哀楽だけでは言い表しきれないこぼれた想い、四季折々に感じたこと、忘れたくないこと、これまでとこれからのこと、自分のことや周りの人のこと、どこかにいるきみのことをうたっています。

アルバムジャケットには生命力満ちる向日葵が描かれています。これは何度もイベントでご一緒させてもらった野島健児さんの絵を使わせていただきました。収録曲のいくつかはこの野島さんとのケロのイベントで生まれた楽曲でもあります。使用を快諾していただき、重ねて感謝です。

また、惜しまれつつも2020年にその歴史に一旦区切りをつけられた西永福POWER HOUSE STUDIOに今回も大変お世話になりました。

滑り込みでスタジオレコーディングしたもののうち、今回収録した楽曲は1曲にとどまりましたが、録らせてもらったまだ見ぬ未収録曲も今後何らかの形でリリースできればと思っています。

長年に渡ってレコーディングのいろはの“い”から真髄にかかわるようなことまで、教えていただいたたくさんのことをこれからも大切に活かしていきたいです。

CDはおろかアルバムという発表形態自体が過去のものとなりつつある今、この「Rays  of sunrise」もまた、生まれながらにして化石になってしまいかねず、聴いてもらうのに機器などご面倒をおかけしてしまう場合もあるかと思います。それでも今回はリリースにあたってこの形態を残させてもらいました。

日々の中、それぞれに合った環境でその時々に気に入った曲を自由に聴いてもらえるなら最早それ以上の幸せはありません。その上で、もし機会があればぜひ一度、はじめに再生ボタンを一回押すのみで、あとはそのままほったらかしにして終わりまでなんとなくゆっくり聴いてみてもらいたいです。

音楽アルバムの、曲順によって連なった想いやリズムをひとつひとつ辿っていくちょっとした小旅行のような感覚を、朝日が差し込んでから東の空を渡って、時に雲に隠れながらやがて西の空に沈み、やがて再び差し込んでくる新しい陽の光までを、この「Rays  of sunrise」と一緒に辿ってもらえたら幸いです。

そんなわけで少し年の離れた妹弟となりましたが、どうか末永く皆様に可愛がってもらえますように。

どうにも蛇足となってしまうことを覚悟しつつ、最後に収録曲についてメンバーそれぞれコメントを残します。

中原明彦

1. ソラシドレ

風に乗って舞い散る花びらのようなピアノフレーズからはじまる「Rays of sunrise」のオープニング。

満開の桜の、あの言葉を失うほどの美しさはもちろん好きなのですが、その後の、新緑が芽吹き出す葉桜のあのなんとも言えない生命感と複雑なコントラストも、その命がまた続いていくことを示してくれているようで愛おしく感じます。

“ソラシドレ”とうたう歌詞部分は曲中の実際の音階もそのままソ・ラ・シ・ド・レとなっています。ドレミファはソラシドと来たら終わりのようでいて、その先にまた“レ”が続いていくんだ、と至極当たり前のことに妙に興奮した覚えがあります。これはそのままコンセプトとなって、のちに生まれた「ヲカシキセカイ」でも同様のフレーズが再度登場します。このように言葉やコンセプトが不思議とリンクし合う楽曲が今作にはいくつかあって、それがアルバムとしてのひと繋がりを生んでいるような気がしています。(中原)

イントロは、桜の花びらが一枚、また一枚、数十枚、そして数百枚と徐々に増えながら舞うイメージで、曲中は不安な響きのコードを散りばめ、桜の華やかさと同時に常に背中合わせにある儚さを表現しようとしました。
春の柔らかな温かさや、やや弱めの日差し、時折吹く冬の残り香のような冷たい風を思い描きつつ作業を進めていたら、ほどよく抑制が効いた大人な仕上がりになりました。(山田

2. 雨どい

「ほら、なんていったっけ?あの映画に出てくる役者、ほら、なんて名前だっけ?」と、なんの脈絡もなく唐突にその御婦人に話しかけられたのは、とある肌寒い11月の、雨の降る斎場の待合室でのことでした。

 

これまでに何度かご挨拶した記憶がある程度の、あまりよくは知らないその御婦人は故人の姉にあたる方で、その後も次々になんの脈絡もなくとぼけたような話をしてくるそのやさしさとおかしさとさみしさにぼくは不意に泣いてしまいそうになって、ぐっと奥歯を噛んでその問いには何も答えられず、相槌もあいまいに聞いているような聞いていないようなふりをして窓の向こうの、雨の滴る雨どいをじっと見ていました。

 

火葬が終わり御遺骨と共に斎場を出ると、さっきまでの雨が嘘だったかのように外はすっかり晴れていて、駐車場の木々に残る雨雫がキラキラと青空に輝いていました。

 

その夜に書いて、数日後のライブで初披露した歌です。(中原)

ロクセンチの曲の多くはピアノアレンジから始まります。つまり、ピアノが決まらないと先に進まないということです。この曲は基本のピアノが決まらず、いろいろなアプローチで弾いては消し弾いては消し、修正を繰り返しました。

2017年11月に初演した際はできたてほやほやの状態で演奏し、まだまだアレンジは未完成で申し訳ない気持ちでいました。そのとき、会場のお客さんのお一人から「細かいところはわからないけれど、聴いていて青空が見えました。」と言っていただき、とても嬉しかった。その言葉が励みとなり、アレンジの指針となり、青空を思い描きながら、完成までねばることができました。(山田)

3. No.9

まだ小学生の頃、友達の間でプロ野球のカードゲームが流行った時期がありまして、それをきっかけにせっせと選手やルールを知って当時野球に興味を持ち始めていたのですが、そんな最中に学校で開催されたとある日曜の野球大会にて、にわか知識で意気揚々と初バッターボックスに立った僕に対して、

「中原!バットの持ち手が逆!そうじゃなくて、こう!、、、違う逆!こう!」

と審判役の先生が「ストライッ!」とコールする時くらいの叫び声で教えてくれて、あわわと定まらない持ち手で動揺し、校庭を包みこむほどの爆笑をさらってしまったという事件がありました。

今でも思い出すと思わずうめき声が漏れてしまうほど恥ずかしかったそのときの出来事は、哀れトラウマとして人生最初で最後のバッターボックスの記憶となっています。

ですが、どこどこの誰ファンということもなくなんとなしにぼんやり野球観戦するのは好きなほうで、アミューズメント感あふれるMLBの各地の球場施設の話を野球好きのスタッフに聞いてから、なんと球場に併設されているらしいプールでの観戦に今は興味が湧いています。(中原)

さまざまな手段を駆使して野球場の雰囲気を表現しようとしています。特に間奏部分では、アメリカの古いノベルティソング「Take Me Out to the Ball Game」をモチーフにしました。

この曲は野球ファンの愛唱歌であり、MLBの試合では7回表終了時に演奏される伝統があります。その時、スタンドの観客は立ち上がり、この曲に合わせて歌ったり、身体をほぐすために背伸びなどをするそうです。

この話を聞いて、「間奏にピッタリだ!」と思いました。元々の曲は3拍子で、No.9の4拍子に合わせるには多少の無理もありましたが、どうにかねじ込むことができました。(山田)

4. コンペイトウ

同じメロディに対して何度も違う言葉を入れ直しているうちに表現したい想いが方々へと散らかってしまい、完成してからもうたっていてしっくり来なくなってしまった、という過去につくった曲の苦い作詞経験から、ひとたび完成とした歌詞はその拙さも含めて作った当時の記録であると思うようにしていて、毎度未熟な作品に自戒はするも修正は最小限にとどめ、その想いごと次の作品へのモチベーションに繋げるようににしています。

そんな中、このコンペイトウは珍しくライブでの初披露から収録するにあたって大きく歌詞が変わった曲です。メロディを組んだ時点で想定した世界よりも少し画角を狭めるように書いてみたところ、背伸びせずにうたえるくらいのところに歌詞のフォーカスが合ってきたのでこれを採用としました。(中原)

シンプルなメッセージを浮遊感のある空気の中で聴いてもらいたかったのですが納得いくものにならず、これも何度も作り直した曲です。

非常にリズムがむずかしい曲で、それをなかなか捉えられなかった。

 

ベースを抜いてエレクトリックピアノで低音をささえたり、ホルンやストリングスの音のダイナミクスをあれやこれや、いろいろしましたが、最終的に中原さんのミックスによるサビのボーカルディレイ(遅れて繰り返される)効果でしっくりきました。そっちかー!と思いました。(山田)

5. この航海は続く

目を閉じて想像する世界は思いのままにどこまでも無限に自由に拡がっている。

もちろん想像と現実は違う。現実は無限でもないし自由でもない。

でも、目を開いて対峙する世界を拡げることは、できる。

悩みながら、のまれながら、それでも心に意志を掲げて人は世界を拡げる。

できれば自分もそういう人でありたい。

本アルバムの末っ子であるこの曲は、予期せぬコロナ禍によるライブ活動の停滞を経て、再始動となるイベントにて初披露しました。(中原)

ライブでの再現度が高いほうが似合う楽曲だなと思い、アレンジはライブ初演のイメージを基本にしました。シンプルな楽器編成であればあるほど、難易度は上がり、気を使います。

歌詞に「どこまでも漕いで漕いでいける」とあり、そのイメージで間奏のピアノフレーズにはじめて88鍵の右端、一番上の音を弾きました。いつかやってみかったのです。ピーン!(山田)

6. ヲカシキセカイ

いろはにほへと ちりぬるを

わかよたれそ  つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせず ん

冒頭でうたう“いろは歌”は平安時代末期に流行した、当時のひらがなすべてを使って見事に世の無常観を歌い切った歌(今様)です。泡を吹くほどのとんでもない離れ業に平身低頭するばかりですが、最後のひと文字“ん”だけは一見すると言葉としての繋がりなく五七の形式からも外れておまけのように歌の最後にちょこんとくっついています。

しかし、あぶれてしまったかのようなこの“ん”は、節にのせるとたちまち意味を軽々と越えて歌ならではのフェイク(歌詞のないアドリブ的な歌唱のこと)として機能しはじめ、いろは歌全体にまでいわゆる“抜け感”を醸しはじめるのです。

最後の最後にすべての無常を包み込んでくれるような安堵と“おしまい”をきっちり示す潔さ、それでいて残してくれる少しの余韻を兼ね備えるこの“ん”にすっかり心酔して、そんなまるでもって手前勝手な解釈のままに、最後まで一気に書き上げた歌です。(中原)

これまでのロクセンチのアルバムをレコーディングしてきたPOWER HOUSE STUDIOにて最後に録音できた楽曲です。地下の広いAスタジオでドラムスの臼井かつみさん、ベースの中村カツオさんとせーので同時にレコーディングしました。おふたりに振り落とされないようになんとかくらいついてピアノを弾いてとても充実した楽しい時間でした。

基本の楽器が録音されたあとは山田ひとりの作業。個人的な妄想や想像を頼りにダビングしていきます。
オルガンとフルートはヲカシキセカイの案内人のようなイメージで、オルガンは案外スマートなキャラクターで、フルートは早口でいらんことを挟んでくるタイプ。
人でも動物でもない姿形まで想像したりして、レコーディング期間の頭の中はカオスです。(山田)

7. ポートワインをご一緒に

ポートワインは甘くてアルコール度数の高いポルトガルの特徴的なワインです。

この楽曲はロクセンチが音楽担当として参加させていただいた演劇企画CRANQの朗読劇「プリモ・ピアット~聖夜のヒミツ~」のために書き下ろしたエンディングテーマを元に、後にフルサイズに仕上げた楽曲です。

クリスマスイブのお洒落なレストランを舞台に巻き起こるいくつかのストーリーをまるっと締めくくるような曲をということで、事前にいただいた台本を元に稽古も見学させてもらいつつイメージを拡げました。

つくりたいテーマがはっきりしている場合、メロディまでの構築は早いのですが作詞過程ではかえって必要だと思い込んでいる安易な言葉選びによって苦しむことがあります。今作はどうしてもキーワードに頼ってしまいそうだったので思い切って、クリスマスを連想してもらえるような内容でありつつも、歌詞に直接的なクリスマスワードの一切を控えることを自分内のルールとして制限して書きました。

クリスマスの歌なんだから四の五の言わず素直にクリスマスって歌えばいいじゃないか、と途中猛烈後悔しながらもなんとかこれを貫いたことで、クリスマスシーズンを過ぎても2月くらいまではうたえる冬の曲としてその後ライブでも活躍してくれるようになりました。

芝居の緊張感の中でうたう独特のヒリヒリとした感覚とキャストのみなさんの躍動は今も心に残っています。(中原)

演劇公演中、毎回このエンディングテーマを演奏するとき、すでに会場には幸福感が充満していたのを鮮明に覚えています。

役者さんたちと観客席のみなさんとの一体感や舞台のエネルギーが最高潮になったとき、最後をしめくくる曲はにぎやかでゴージャスなイメージを持っていました。

当時は二人のピアノとギターの編成でしたが、演奏中の頭の中ではホーンセクションやストリングス、そしてコーラス隊を含む大勢のバンドが一緒にステージに立って踊っている姿を想像していました。それが実際にアルバム収録され、形にすることができてうれしいです。(山田)

8. たべさせタイ

つくった後になって知ったことですが、歌詞中に出てくるたい焼きはその昔職人のおやつとして大変好評だったそうです。仕事で手が汚れたままでも、餡の入っていない尻尾の部分を掴んでそのまま食べることができるのが便利で喜ばれたそうで、残った尻尾はそこらの野良猫に放りあげたりするのが常だったようです。

つまり尻尾まで餡が詰まっていないのが昔ながらの本来のたい焼きだったということになるので、歌詞中“安心のアンを・・・尻尾まで詰め込みたい”のは時と場合によっては邪道というかいらぬお節介になってしまうような気もします。

そんなわけで図らずも人に寄り添うことの難しさを暗示しているかのような2番歌詞となりかねないのですが、とはいえ尻尾まで餡が詰まっているとやっぱりうれしい僕としては最近の餡たっぷり方向のたい焼きを怯まず支持していきたいと思っています。

結果的に先行としてはやや早過ぎてしまった感のあるアルバムの先行配信シングル曲です。

Album Mixでは長かったその重責の荷を降ろして、楽曲本来のナチュラルでやわらかい質感を意識しました。想像するシーンの背景のサイズが適度に小さくなったような印象で気に入っています。(中原)

このアルバムの超先行発売ワンマンライブを2023年2月18日に設定し、それを目標にレコーディングの最終作業を再開しました。

最終作業といってもやりはじめるとアレコレと手を入れたくなるもので、結局当初の予定の入稿日はとうに過ぎ、もう本当に最後、明日のお昼までに入稿しないとライブに間に合わないという状況で、中原さんがこの曲のミックスを最初からやりなおすと言ったとき、ああ、もう今回のアルバムは出ないんだなと思いました。(山田)

9. バラードうたわせて

相手に対する自分の気持ちに気づき、相手のためにできることを見つけていくのがバラードとするなら、この楽曲はその最も初期の、自分の心の中でハッとした変化の瞬間から始まっていく焦りのような感情をうたっています。

前作「Rag & Safety blanket」の直後に制作したこともあり、当初は本作の雰囲気を先取るプロローグのような位置付けで考えていましたが、長い時間を経てラスト前のここに辿り着きました。

歌で始まる曲は数あれど、加えて歌で終わる曲はロクセンチには珍しく、軽快なこともあってセットリストのどの場所にも比較的組み込みやすい孝行曲なのですが、それでもうたうたび、じゃあこんな歌をうたう間にもうさっさとバラードをうたえばいいのに、と思ったりもします。(中原)

いまもっているすべてを投下しないと演奏することができない、難曲のひとつです。

歌のリズムがとくに繊細で、アルバム収録にあたってはシンプルな楽器編成にして、歌のグルーヴを邪魔しないようにこまかく調整するのに時間を費やしました。(山田)

10. 午前五時のヒマワリ

野島健児さんとロクセンチの朗読と音楽のイベントシリーズ「ノジマケンジとロクセンチの 言と音(こととね)諳(そら)の物語『ケロのソラシドレ』で生まれた楽曲です。同じくこのイベントシリーズで生まれた本作収録の「ソラシドレ」が桜、「ヲカシキセカイ」が紫陽花をモチーフとしているように、この曲も季節の花をモチーフとしています。

向日葵は圧倒的な夏の陽の象徴のような晴れやかな印象の強い花ですが、大きな首をもたげながらやがて壮絶に散っていく花でもあります。夜の間その重さにうつむき続けていた向日葵は、その名前のとおり、朝を迎えると差し込んでくる朝日の方向へその顔を再び上げます。

夢、希望は尊くて儚くて、時に愚かで醜くさえあったりするものだと思います。叶うときもあれば叶わないときもあって、甲斐なく踏みにじられたり、馬鹿にされたり、裏切られたり、あきらめたりすることもあるのが夢であり、希望です。

でも、そうであったとしても、本人ですらもう忘れかけている、こびりついた情念のようないびつな塊はしかし、その人がまたいつか自らを突き動かすための原動力として、今も身体のどこかでくすぶっているのではと思います。

Rays of sunriseで光を当てたかったのは、日常の端々で時にひょっこり顔を見せるそういったどうしようもない感情のうごめきだったような気がします。(中原)

曲の冒頭、吹き始めの秋風にゆれる乾いたヒマワリや、朝靄の中で鳥や虫がうごめくシルエットを想像しながら音をつくっていきました。

全体的にうす暗くてどこか冷たい雰囲気で曲は進行しますが、mocoさん(mogmoco)の「La La La La・・・」の温もりのあるコーラスが入るたびに徐々に温度は上がっていきます。

それにあわせて伴奏の楽器トラックにもダイナミクスをつけていきました。

ある程度アレンジが固まった時点で、本作のアルバムの最後に収録されるかなと想像したので、後奏のピアノソロはこの曲のしめくくりでもあり、アルバム全体のしめくくりとして気持ちを込めて弾きました。(山田)

ロクセンチ 5th Album『Rays of sunrise』

ロクセンチ 5th Album『Rays of sunrise』

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追加予定配信サイト
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